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昨晩はF1カナダGP決勝が行われていたのだが、北米および南米で開催される場合には日本での放送は真夜中になってしまう。昨年、この北米ラウンドでは日本の佐藤琢磨が好調だったので(来週行われるアメリカGPの場合、佐藤は昨年3位表彰台を果たしている)、本心から言うと生で見たかったのだがさすがに睡魔には打ち勝てず、結果ビデオで録画したものを今日見る事となった。

毎年カナダGPは荒れる事が多いのだが、今年もその例に漏れずかなり波乱のレースとなった。優勝候補が次々と消え、前回のレースでファイナルラップにリタイヤとなってしまったマクラーレンメルセデスキミ・ライコネンが雪辱を果たし今期3度目の優勝、2位、3位は久々にフェラーリマイケル・シューマッハルーベンス・バリチェロという結果。佐藤琢磨はマシントラブルでリタイヤ。

確かにこういうレースは見ていてハラハラするもので、今期のGPの中では1,2を争うほど面白かった事は事実なのだが、それでも「何かが違う」と思わずにいられない事もまた事実。決してコース上の争いで決着が着いた訳ではなく、トラブルの積み重ねがそのままレース結果として反映されているに過ぎないからだ。この10年ばかりF1を見ている方なら承知の事なのだが、今のF1はマシン同士がバトルし難いレギュレーション(規範)の元に作られており、詳しくない方には不思議な事と思えるだろうが、前の車をパスするのでさえ困難な車になってしまっている。しかしこのレギュレーションは本来は全く逆の思惑で決められたものではあるのだが。

94年のサンマリノGPにおけるローランド・ラッツェンバーガー、そしてアイルトン・セナの事故死以来、F1の安全性を高める事が急務となりエンジン排気量の縮小、ボディ構造の大幅改変などが行われた。しかし最新のテクノロジーを駆使して行われるスポーツであるが故にマシン自体の性能は右肩上がりで年々向上、結果排気量は落としたのにマシンスピードは上がり続けるという矛盾が生じた。それが故にF1を統括するFIAはマシンのボディ幅を狭めた「ナロー・カー」での競技を義務付ける。幅を狭める事によってマシンの安定性が低くなる為スピードも低下する、という訳だ。でもこれは意味が無かった。

次に講じたのは「グルーヴド・タイヤ」の導入。本来スポーツカー・レースは溝が無い「スリック・タイヤ」で行われるのだが、このスリックタイヤに4本の縦溝を入れたグルーヴド・タイヤを使用する事によってタイヤのグリップ力は低下する。その結果、マシンスピードは落ち、ナロー・カーにした事によって生じた、コーナーでの追い抜きが難しくなったという問題も解決する。だから追い抜きの機会も増えるだろう、という目算だ。でもこれも見事に大外れ。スピードはそのまま、車の安定性は大幅に低下、曲がらないから抜くのも困難。最終的にはぐるぐる回る事しか出来ない車でF1を毎年開催する羽目になっている。車の順位が入れ替わるのは基本的にはピットインする時ぐらいで、ドライバーの技量よりもチームの戦略が勝敗を分ける重要なポイントという極めて地味で判り難いレース、というのが今のF1の実情。

じゃあ単純にタイヤもスリックに戻して車の幅も拡げれば元に戻るじゃない、と考えてみたくもなるのだが、実はそれは非常に危険。何故ならそのルールの上で今の技術を注ぎ込むと最高速度400キロオーバーのマシンが簡単に出来上がってしまい、ドライバーの危険度が極端に増すからだ。そんな車でレースしたら多分70年代の様に毎年死人が出るだろう。

じゃあスピードリミッターを付けるとか、エンジンを極端にスケールダウンすれば・・・ というアイディアも出てくると思うのだが、そうすると「世界最高峰のレース」とは言えない。なんだかんだ言っても妥協せずに持てる技術を全て注ぎ込むのがF1だからだ。まあ実際には来年からV10エンジンからV8に変わるので、これはスケールダウンと言えるのだが。

これは結局宿命的なジレンマなのだと思う。最新のテクノロジーと最高のドライバーによる戦い、しかしその反対側には必ず危険や死が待ち受けている。でもサッカーに匹敵するほどのソフトとして成長した以上、危険からは出来る限り遠ざかり、安全なスポーツとして世界に発信していく必要がある。でもそれが成り立たない程の次元まで今のF1はプログレスしている。

「何かが違う」と書いたが、それはやはりバトルの無いF1なんてF1じゃないよ、という事だと自分では考えている。ではそれが可能なF1に変更してくれ、と僕自身が考えているかと言うと、またそれも肯定は出来ない。セナやラッツェンバーガーの死をリアルタイムで目の当たりにした世代としてはもう二度と誰かが亡くなる瞬間なんて見たくないのだ。

見る側も今のF1の状況には葛藤を抱えているのだ。